「火垂る」のように儚い命があった
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戦争は終わったが、戦災孤児である清太に幸せは訪れなかった。
栄養失調による衰弱死であったが、妹節子を喪った清太には生きる希望が失われていた。
アメリカの絨毯爆撃は非戦闘員や病院なども焼き尽くし、多大なる犠牲が生まれた。
ハーグ陸戦条約に違反した、そうした爆撃により清太と節子の母親は死んでしまった。
戦争に行った父親と連絡は通じず、2人は叔母さんの家に身を寄せた。
結局2人は叔母さんの家を出ていくが、僕はここの描写が非常に嫌いだ。
2人は邪魔者扱いされるわけであるが、その心理が情けなく思えてしまうのだ。
1つ目に「働かざる者食うべからず」という思想が適用されているが、未成年にもそれを要求するのは酷ではないか。親がおらず、学校も焼け出された清太には目下やることがないのだ。他の未成年者との対比で厳しい目で見られるのはしょうがないかもしれないが、節子の子育てもあるのだから、そこは考慮されてしかるべきだろう。僕からすれば、銀シャリを食べて満足顔の叔母さんは、子どもより自分を優先させているという意味で非常に卑しいと思う。
2つ目に、自分の子どもを他の子どもより優先させるという思想が僕には理解できない。明らかにここには、将来の自分の生活保障のための安全弁としての子どもという見られ方がなされている。確かに戦前の家制度では、親子関係の規定が厳格になされており、他の関係性より優越する立場にあったのは間違いない。だが、僕はそれが気に入らない。自分の身は自分で処するのが自立であり、それが人間存在の必須行動であると思う。ゆえに、将来の安全弁として子どもを寓するという思想は僕には受け入れられない。「頑張れよ」と思う。所詮は日本は疑似血縁家族制のもとにあるのだ。血のつながりが家族というならば、もとをたどれば全員家族だ。
その後、栄養状態の悪い節子は死に、清太も後を追うように死んだ。
80年生きる人間の生命が「火垂る」のようであるわけがない。
栄養失調による死ほど、やりきれない思いになるものはない。
先の戦争による兵士の死因は餓死がその多くを占めている。
人間が生存率を上げるために集団をつくり、国をつくったとするならば、この現象は本末転倒ではなかろうか。
いや、生存率を上げるためというのが、対人間同士の争いをその最大の障害であるとした想定の上で紡がれているならば、全面戦争による被害を免れ得たという意味では効果をなしている…のか…
僕が気になっているのは、戦争という対人間同士の争いがなかったとしたら、国が人間集団の最小単位となっている今の世の中は、まったく違ったものになっていたのではないかということである。
明治維新で国として強固にまとまる必要があったのは、発展した欧米列強に伍するためであるが、戦争がなかったならば、その必要もなかったのではなかろうか。
けだし、食べるということだけは、絶対に侵されえないものとして守らなければならないと思う。
「おにぎりを食べたい」と言って亡くなった生活保護受給者がいたが、そのような存在が今ですら在るということが許容されていいのだろうか。
栄養失調や餓死は著しく人間の尊厳を侵すものであると思う。
生まれちまったものはしょうがないじゃない。と、僕は思う。