柔道好き男の闘病記

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「叶わぬ恋」と「訪れた平和」

映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 [ 矢島晶子 ]


感想(17件)

廉姫の願いは、野原一家により叶った。

春日に平和は訪れたのだ。

 

しかし、廉姫と又兵衛の恋が成就することはなかった。

しんのすけが春日に来なければ、廉姫は大蔵井に嫁ぎ、日の目を見ることもなかっただろう。

野原一家が春日に来たことは明らかに良いことであったが、特に廉姫としんのすけは悲しい思いをすることになった。

願いがすべて叶わないという話は、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を連想させる

物事が上手くいきすぎると、なにか落とし穴があるのではないかといった感覚は常にある。

 

 

 数多の国が、自らの生き残りをかけて政略結婚を繰り返してきた過去がある。

国と国との関係を取り結ぶ一様式としては、合理的な選択であるのかもしれない。

しかしながら、当人らは私人として生きることを許されず、いわば国の道具として消費される存在となる。

 

もちろん春日康綱は、娘のためだけに大蔵井との決戦を選択したわけではないだろう。だが、隷属するぐらいなら戦うことを選ぶということは、不合理な行為であるとは思わない。

いつになろうが、対等な関係性になるわけではないからだ。

 

「犠牲」と言えば、今回は廉姫ではなく又兵衛の犠牲により平和が訪れたのだなあと思う。

「犠牲」なくして「平和」が訪れたことがあるのだろうか。

FINAL FANTASY Ⅹではないけれども、国際政治のパワーバランスであるとか多国籍企業、行き過ぎた競争主義のような言葉からは、「平和」は一時的なもので定期的な「犠牲」のもとに訪れるものではないかと思ってしまう。

 

人間が紡いできた正も負も合わせた歴史を鑑みて、同じ過ちをどれだけ繰り返さないでいられるかが鍵となるのではなかろうか。

戦国時代が今より良かったなんてことはないが、ことに「生きる」ということに関してだけなら、あの頃の方が「生きる」ということの意味が社会全体で共有されていた気がしている。

死んではいけないが、ただ生きているだけというのも解ではないのだ。

 

原恵一『映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』 ―自宅にて