「才能」に恵まれても「普通」でありたいのさ
「ギフテッド」とは、先天的に平均よりも顕著に高度な知的能力を持っている人のことである。
主人公のメアリーは「ギフテッド」であり、高度な数学理解能力がある。
そんな彼女に英才教育を施すべきか否かが作中で問われている。
論題は変わるが、「ギフテッド」として生まれることが幸せであるとは思わない。
なぜなら、顕著に目立つ能力を持っているということは、その能力を発揮することが求められるがゆえに、概して普通の生活と縁遠くなるからである。
だからこそ、作中で叔父のフランクと祖母のイブリンが争うわけであるが‥‥‥。
まあ、個人的には顕著な知的能力を個性として認めて、英才教育を施すのがベストであろうとは思っています。
亡き姉の願いが、メアリーを普通に育ててほしいというものだったのは、自らの人生を振り返ってのものだろうか。
数学者として、誰も解いたことのない問題を解くためのマシンとされてしまったダイアンは、その問題を解いたことにより使命を果たしたかのように自殺してしまった。
メアリーの祖母で、ダイアンの母親であるイブリンは、自らが成し遂げれなかったことを娘や孫に押し付けてしまった。
イブリンには社会貢献の意識はあろうが、残念ながら娘や孫の幸せを考えることはできなかった。
子どもは幸せでなければならないと思う。
ことわざに「三つ子の魂百まで」というものもあるように、子ども時代をどう過ごしたかは人生に大きな影響を与えるのである。
さらに、20年間を子ども時代と仮定するならば、それ以降の時代は60年もあるのである。
故に、子どもの幸せを目的として教育を行わなければならないのである。
僕は日本にはエリート教育が必要であると思っているが、ギフテッド教育も必要であることを痛感させられた。
現在の学校現場の忙しさを鑑みれば、才能はつぶされるよりしょうがなく、日本全体のことを考えても由々しき事態となっている。
個人的には校務分掌もかなりの負担なのだから、少人数教育を推し進めて教員数を増やすだけでも非常に効果があると思っている。
なんにしても、余裕をつくるということから始めないと現状分析もままならないのが今の状況といったところだろう。
僕は教員採用試験に落ちて一般企業に行った人間であるが、お呼びがあればいつでも教員になる準備はある、などと言ってみる。
現在の破廉恥事件続きの学校現場を見ていると、その教員を採用した試験官の責任も問われるべきではないかと思う。
正直なところ、僕は学校制度というシステムももう時代遅れであると思っている。
つまり、一斉授業という形態が、ということを一番問題視するのであるが。
その辺も今後考えていく必要があるなあ、と少し気を重くして本稿を終える。
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