そして「彼ら」は家族になった
観終わった後、ずーんと心に重くのしかかってきたものは「日本が融けていく」という思いである。
是枝監督は、日本に存在する深刻な問題をこれでもかとスクリーンに映し出した。
カタルシスどころか、彼らの未来に対する不安が頭を離れなくなってしまった。
犯罪を犯した彼らを検察官や家裁調査官が問い詰める。
ここでの対比も非常に印象的である。
ボロ小屋で生活する彼らと、分譲マンションに住んでいる住人。
「生きる」ために犯罪を犯した彼らを裁くことなど、誰ができようか。
自己責任論が跋扈している世の中ではあるが、金がなければ「死」が待っているというのはおかしいのではなかろうか。
「おにぎりを食べたい」といって亡くなった人々のことを忘れることはできない。
そもそも金がなければ生きられないのだろうか。
例えば人が無人島でも生きていけるのであれば、その前提は崩れる。
それは、人は生存率を上げるために集団をつくったのであるから、命が奪われるのであればその集団に所属する意味は根底から消滅するという理由による。
我々は、この論理をよくよく考える必要があるのではなかろうか。
現在の社会は、少数者の犠牲の上に多数者の生活が成り立っているという構図そのものである。
資本主義システム、流通の効率化、すべては巨大化していく一方であり、エラーとしての規格外品は捨て去られていく。
しかしながら、それらが社会を益してきたことも事実であり、一概に否定すれば原初的生活が望ましいなどという結論に至りかねない。
ただ、法ですべてを規定することはできないし、すべての人間を救うシステムなど構築できはしない。
ゆえに、法でもシステムでもなく、いわば「道徳」とでも言うべき潤滑剤によってその間隙を埋めるしかないのではないか。
いや、おそらく日本から失われたものの最たるものが、その精神性ではないかと思っている。
日本の子どもは「とりあえず決まりを守っていればいいんでしょ」という意識が強いことが明らかになっている。
このような精神性のまま大人になればどうだろうか。
困っている人間がいようが、別に俺関係ないしとなることは必然ではなかろうか。
「法律があるんだからなんとかなるんじゃない。政治家がちゃんとしないせいだよ。俺他人のことなんか構ってる暇ないから」
いかにも小さな人間という感じがする。
別に近所づきあいがなくなったとか、そんなことはたいした問題じゃない。
困っている人間がいても無関心であるその精神性が、どうしようもなく情けないのである。
都市などは相互依存的生活の最たるものであるくせに、その現実を認めない稀有なシステムになりあがってしまった。
電気も自治出来ず、食料も自治出来ず、水も自治出来ず、流通が止まればそれでジ・エンドである。
それにもかかわらず、その現実を見ないでいるのは、「金」という現在の社会で「命」以上の価値を持つとほとんどの人間が勘違いしているまやかしにまみれているためだけに過ぎない。
すべてが消費する対象であるとする西欧文明に従っていれば、人間が資源を食い尽くすことは明らかだ。
経済活動が活発であるとは、つまり活発に消費されているということだろう。
いかにも独善的でロマンスがない。
土も植物もすべてが生きているのだ。
そもそも人間が消費できる代物ではなかっただけにすぎない。
そういう精神性を日本人は持っていたはずなのだ。
真に還るべきはそこであろう。
子どもを軽んじてはいけない。
大人となにが違う。
なにも違わないことは明らかだ。
もう開き直るのはやめにしよう。
もう少し、子どもの前でカッコつけようじゃないか笑