「オトナ帝国」は「今」を生きるすべての大人への応援歌だ
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [ 臼井儀人 ]
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イエスタデイ・ワンスモアのリーダー、ケンは21世紀の日本を評して「汚い金や燃えないゴミがあふれただけだ」と言う。
そして、人々がまだ「心」を持って生きていた時代である、20世紀に社会を戻そうとする。
日本は豊かになったと言われる。
しかしながら、その内実は物質的に豊かになっただけで、精神的には後退していると指摘されることがしばしばだ。
榊原英資氏が『幼児化する日本社会』で述べているように、日本は拝金主義者であふれてしまったという見解に僕も同意する。
戦後、日本は世界が驚くほどに急速に発展した。
その理由として、外交や安全保障をアメリカに依存していたために、経済成長に全力を尽くすことができたからだと分析されている。
それは事実であると思うが、その結果失われたものとして外交能力や安全保障の考え方などが注目されるが、同時に日本人の精神性も失われていることを見落とすわけにはいかない。
学校教育で道徳が教えられなくなったことはその最たる要因であると言えると思う。
戦前の修身教育に対する反省とアメリカからの要請により、長らく十分な道徳教育が行われなかった。
その結果、どうなったか。
宗教性の薄いと言われる日本人は、宗教による歯止めもないままに人生における価値判断基準を失い、資本主義社会における基本的な価値判断基準である、金銭で見てどのぐらいかというところに帰着してしまった。
そこには合理主義があるだけで、「心」のような金銭ではかれない価値は捨て去られるのだ。
さらに、自由競争下ではすべてがサービスになり得る。
人と会うということは、人間として必要不可欠の行動であるが、手間がかかるのも確かだ。
手間がかかるということは、そこにニーズがあるということである。
こうして便利さが追及されていき、手間が金銭でサービスとして解決されていく。
ますます人と人との触れ合いがなくなり「心」は失われていく。
「心」が育まれる土壌がなくなっていく。
ケンは、20世紀を知らない現代の子どもを隔離しようとする。
ケンが思う子どもは、「未来の社会に希望を持っている」ことと「子どもが本来持つ未来への希望」の両方を持っていなければならないのだろう。
つまり、自分たちが子どもだった頃の子どもが必要なのだ。
ケンとチャコは言う。
「生きていても苦しいだけじゃない」
2人は現代の子どもは「未来の社会に希望を持っていない」と思っている。
しかし、しんのすけはそうじゃない。
「大人になりたいから」
つまり、未来を生きたいのだ。
「また家族に助けられた」とケンは言う。
「家族」とはハトの親子が表しているように、未来を生きる決意をして「子ども」を生んだ夫婦のことだ。
ケンとチャコは未来を生きる覚悟を持てなかったからこそ、子どもをつくれなかったのだ。
そして、ケンの言う「家族」とは自分の親を含んだ、「家族」としての営みをつづけてきた人々のことだろう。
ケンとチャコは社会に希望を見出したのではない。
ひろしとみさえを中心とした「あの頃」を知る人々が未来を生きる覚悟を決めた。
そんな、社会を生きる人々に希望を見出したのだ。
チャコが言うように、生きていても苦しいことばかりかもしれない。
しかし、そんな中にあっても喜びを感じられる瞬間があることを、ひろしとみさえは教えてくれているのだ。
直接的には「子ども」という存在であるが、それは「未来に希望を持つ」ということのモチーフでもある。
ケンとチャコは方法は間違っていたかもしれないが、社会を良くしようとしていたのは間違いない。
もしかしたら子どもを産まなかったのも、こんな社会に生まれさせたくないという思いの方が強かったのかもしれない。
間違いなく本作の主人公はひろしとみさえである。
ひろしの回想シーンは何度見ても感動してしまう。
生きることは苦しいが、その分喜びも強く感じられるのだ。
だからこそ、今日も生きていこうと思えるのだろう。